車の運転のセンスがあまりないので配達では悪戦苦闘の日々ですが、最近は配達に出なければ到底いくはずがないところに行けるのは、もしかしたら役得かもしれないと思うようになってきました。
京王井の頭線沿線には作家の松本清張が住んでいましたし、環八沿いには開高健が住んでいました。
大沢在昌さんの人気シリーズ『新宿鮫』の主人公 刑事の鮫島は、環七沿いの中野区野方のマンションに住んでいて、乗っている車は中古のBMWという設定なので、足立方面などに向かうときはついつい反対車線を走る車の中にBMWを探してしまいます。
大田区池上の得意先から大森西に向かうときは、池上通り沿いの一方通行の道を入ります。本門寺前の交差点にある、元祖 久寿餅と謳っている店の前を通ります。最近、森鴎外の妹の小金井喜美子さんが書いた『鴎外の思い出』(岩波文庫)を読むと、鴎外が友達と本門寺近くの古い家で葛餅をたべたという話が出ていました。池上は葛餅の発祥の地とのことで、恥ずかしながら知りませんでした。
嘉永7年(1854)に出た尾張屋版の白金絵図には、下目黒から恵比寿にある得意先にむかうときに走る、目黒川に架かる太鼓橋を渡り、あがりきるとJR目黒駅前に出る、途中に大円寺があるとても急な行人坂や、交差する権之助坂、目黒不動を結ぶ目黒通りになる道がすでに描かれています。
同じく嘉永7年に出た牛込市谷 大久保絵図をみると、抜弁天を挟んで、若松町で交差する大久保通りに向かう抜弁天通りと、靖国通りと交差する住吉町に向かう余丁町になる道はすでにあります。大久保通り沿いの原町にある得意先の裏の、法身寺、幸国寺も絵図にのっています。
わが社の本社がある新宿区愛住町を、嘉永3年(1850)の千駄ヶ谷鮫ヶ橋 四ツ谷絵図で見ると、本社の前の一方通行の原型の道はできていたようで、通りを挟んで向かい側にある正應寺、法雲寺、浄雲寺も絵図にかかれています。
本社からの帰りに四ッ谷3丁目から外苑東通りを走りますが、明治記念館のある権田原の交差点があります。永井荷風の『断腸亭日乗』の大正12年(1923)9月1日の関東大震災直後の9月4日、荷風が青山権田原から歩いて西大久保に住む母親の安否を確認しに行ったことが記されています。大正9年(1920)5月23日に引っ越した偏奇館(現港区六本木1丁目)からどういう経路で権田原を経由して西大久保まで歩いたのかは不明ですが、まだ不気味な余震が続く、震災直後の東京を歩く荷風の姿を想像してしまいます。
こんな感じで、配達に出ることになって、思いもかけず自分の好きな作家が住んでいた付近にいくことができたり、また日々走っている道の歴史にも詳しくなれるのも、配達をしている役得といえるのかもしれません。